みんな寿命を全うしようぜ

みんな寿命を全うしようぜ
西表島で会った昼の蝶

2014年4月28日月曜日

塙保己一旧宅へ行く/埼玉県児玉町

塙保己一の生家・児玉町
東側道路から見る

 仕事の先々で時間があれば歴史探訪、26日は群書類従を編纂した塙保己一の生家を尋ねた。
 1746年生まれの保己一は、7才で失明するも抜群の記憶力で数万冊の古文書を耳から暗記、歴史や文学、古い法律や制度
についての本を収集し、後世に役立つよう次々に文書保存を行った。
 中でも代表的な事業が群書類従で、日本の政治、経済、社会の出来事などを記録、保存するため、古典や古文書を収集、分類、校正し、木版刷りで出版した666冊に及ぶ日本最大の国書のシリーズ本を完成させ、貴重な書類を散逸から救った。
同書は日本初の大型出版事業であり、ちなみに、400字詰め原稿用紙の体裁は、塙が出版事業を手掛ける際に考案されたものと伝えられている。
 24歳の時から群書類従の編纂を手がけ74歳の時完成させた。
 塙保己一は晩年の賀茂真淵にも師事している。
その保己一の生家が児玉町にある。もう何度か行っているが子孫が実際住んでいるようだ。
 静かなたたずまいの雰囲気を壊すことのないよう気を使いながら歩いた。近くに墓もある。
 富岡製糸場が世界文化遺産登録ということで極端なにぎわいらしいが、こんなところも実にいい。

2014年4月27日日曜日

必見 《ある精肉店のはなし》/シネマテークたかさき

映画「ある精肉店のはなし」
監督の纐纈(はなぶさ)あやさん
緊急集合した光石研さんを囲む会の面々

 大阪貝塚市での屠畜見学会、ここで牛の命と全力で向き合う精肉店との出会いからこの映画は始まった。
「ある精肉店のはなし」という話題の映画を観るつもりだった。
 児玉町で仕事をしていると、土田社長から「今日、監督の舞台あいさつがあるんですけど、無理しなくてもいいですよ」との電話。
無理しなくても、と言いながらも、来て欲しいから電話くれたことは彼の性格からわかる。20分遅れでの観賞となったが、確かに相当いい内容だった。
 最後の牛の屠畜のシーン、その後の家族全員での手際のいい肉捌きの流れは圧巻だった。
牛の皮を太鼓の皮に変えていく作業も見応えがある。
 被差別部落の生業として代々受け継がれてきた家業も時代の流れの中で閉じていくことになる。
 北出家の人たちのおおらかな家族関係、地域での人間関係を映しながら、厳しい仕事と心底、向き合うことのスゴミを見せてくれる。
 レストランで肉を食べるとき、生きものから食べ物へと変えていく屠畜の現場を担う人々がいることを忘れてはいないだろうか。   このようなドキュメンタリー映画は作る側と撮られる側の信頼関係が必須の条件だ。
 熊か野獣のような男連中が作った映画かと思っていたら、なんと、うら若い女性がでてきて舞台あいさつ。それがまたのびのびしていて嫌みもなく映画を紹介してくれた。
 その名を纐纈(はなぶさ)あや監督、「押し込み舞台あいさつ」などと謙遜していた。
1974年生まれで自由学園卒業という。自由学園といえば羽仁もと子が創立した学校だ。のびのび教育を今の公立学校に求めるのは無理なことなのか。
 シネマテークたかさきで5月9日まで上映、必見の価値あり。

 解散し、秋山君と帰ろうとしていると、土田君から電話、ホルモン屋へ行く話かと思ったら、テレビドラマのロケのため光石研さんが高崎に来ているということで、投宿しているホテルロビーへ再結集、志尾さんも立ち会い、1時間ほどだが楽しいひとときを持てた。
 光石さんと会うのは、映画「漂泊」への友情出演のため玉村町に来た昨年7月以来だったが、忙しいなか、几帳面に連絡してくれるなど本当に気配りの人だ。ますます応援したくなる。
 志尾さんには、「60万回のトライ」の高崎での上映をお願いした。

 

2014年4月26日土曜日

「富岡製糸場」世界文化遺産へ

正門から見た富岡製糸場の東繭倉庫
ガッシリとした木造の建物
当時の自動操糸機械のそのまま
 
髙山社の悠然とした建物(藤岡市)

 「富岡製糸場と絹産業遺跡群」を世界文化遺産として登録するようイコモス(国際記念物遺跡会議)がユネスコ(国連教育科学文化機関に勧告した。
 「伝統的な生糸生産から急速に最善の大量生産手法に到達したことを表している。日本が近代工業化世界に仲間入りする鍵となった」と評価している。
 中に入ってみると、広く高い木造ブロック造の建物が当時のまま保存されていることに驚かされる。
 2月の雪で一部壊れた部分もあるが、明治以降の風雪に耐え、所有会社に先見の明があったのか、戦後も取壊しをせず保存をして、固定資産税まで払ってくれていた。その労がこのような形で報われようとしている。
 歴史をそのままの形で現代に生きる者に手渡す意味を考える時だ。
 昨日は、群馬の森にある朝鮮人強制連行の追悼碑の契約更新につき、「歴史的に意味あるものなので、このまま更新し、後世にわたすべき」と公園課課長に申し入れた。
 韓国、朝鮮との友好碑として将来機能することを銘記すべきだ。
 
 
 

2014年4月20日日曜日

「記憶、反省そして友好」の追悼碑を守る会の集会

朝鮮学校の子供たちも歌で参加
群馬の森に立つ慰霊碑こそ国際友好の碑だ。
佐藤知也平壌・龍山墓地墓参団団長
追悼碑を守れ、と訴える猪上輝雄さん

 19日高崎労使会館で「記憶・反省そして友好」の追悼碑を守る会の第11回追悼集会・出版記念会が行われた。
 《20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地でも、事故や過労により尊い命を失った人も少なくなかった。
 21世紀を迎えた今、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。
 過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。
 この碑に込められた私たちの思いを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである。
    2004年4月24日
       「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を建てる会》
 
 この言葉が書かれている追悼碑が群馬の森の県有地にある。
政府の行為による強制労働なのだから、この碑が群馬の県有地に立てられることはむしろ当然のことだ。
 極右・安倍政権下、戦前の歴史を日本の有利なようにねつ造しようとする動きが顕著になり、この碑に対しても撤去を要求する声がある。
 全く歴史に逆行するこれらの動きに対し、群馬県は毅然と跳ね返し、歴史に恥じない対応をする必要がある。
 会場で平壌・龍山墓地墓参団団長の佐藤知也さんと会い短時間だが話をすることができた。
身をもって戦争のことを知っている人だけに、この追悼碑のことを高く評価してくれたことはうれしい。
 
 
 
 
 
 

2014年4月16日水曜日

協同労働の「だんらん」を視察

福祉施設・だんらん上柴

                       とうふ工房前での総務常任委員

「協同労働の協同組合法」法制化への理解を深めるため、朝から深谷市にある「とうふ工房」、「だんらん上柴」、「だんらん」、「ほほえみ」を訪問視察した。
 日本における労働環境の大きな変化により、働くことに困難を抱える人々が増大し社会問題となっている。そんななか、「雇う、雇われる」関係ではなく、働く人々が出資し、経営に参加して仕事を作り出す「協同労働の協同組合」の活動が地域に広がっている。しかし、根拠法がないため、組織を作っても法人格が得られず、金融機関からの融資や自治体からの委託業務を請け負うことなどが困難となっている。
 そのための法制化を求める意見書を提出するよう求める陳情が玉村町議会に提出されたのを受けての視察となった。
 総務常任委員会全員で現実に運営されている協同労働の現場を尋ね、その実態に触れることが出来た。
 まず、全員参加の共同労働現場での参加者の意識の高さに注目したい。
 地域の課題解決に向け雇用やコミュニテイーを創出する積極的な姿勢が目立った。
 利潤追求一辺倒の社会の対極にある本来の労働の意味を考えさせる運動と言えるのではないか。
 そんな時代がそこまで来ていることを気づかせてくれる意味ある視察だった。

2014年4月14日月曜日

南京歴史散策(前)

南京での最後の周恩来記者会見の像
奥が周恩来執務室、横の家の2階から国民党兵士が監視していた。

周恩来が乗った車






気持ちが落ち着く梧桐樹の街路樹
ここを中心に歴史は動いた
孫文の執務室

「革命未だ成らず、同士須く努力せよ」

 歴史散策はやはり南京、10数年前にも一度行ったが、もう忘れかけているので、まして、日本の今の政治があまりにつたないので、確乎とした近代中国の歩みの一部を改めて体感しようと出かけた。
 南京市の中心部に宿を取れば、歩いて15分くらいの所に、孫文が政治を指揮した総統府があり、ここで太平天国の乱から辛亥革命、蒋介石の国民党、日本の侵略、中国共産党の台頭などを学べる。
 学ぶと言っても現地の人にとっては、日本の侵略はとんでもない話であることに違いない。学ぶという言葉を使ってしまう余りの軽さに自分の無学を恥じ入る。
 時間軸をキチンと整理すると、近代中国にとり、日本の侵略は本当に不幸なことだったことがわかる。日本人の私にとっても、なんという過ちをしてしまったのか、歴史を戻すことができれば、戻したい思いになる。
 それほど中国侵略、その象徴としての南京大虐殺事件はすさまじいもので、全く恥ずべき大事件だった。
 その話は次回にするとして、この総統府から歩いてほどない距離に、1946年5月から47年3月まで、国民党政府との交渉を行った周恩来の事務所がある。「梅園新村記念館」だ。
 南京大虐殺のことばかりでは本当に気が滅入ってしまうので、国共内戦、日本の侵略から不屈に中国革命を指導した人間・周恩来の生きた軌跡を知ることで、少しは気持ちを中和しようという思いがあった。
 革命中国の偉大な指導者達は毛沢東を筆頭にたくさんいる。しかし、暴虐の限りを尽くした日本軍兵士を思想改造し、戦犯1000人を無罪とした「撫順の奇跡」を指導し、怒る中国人民を説得したのは周恩来だ。
 彼のことを考えると、涙が出てしまう。本当に尊敬している。
 
 南京博物館での1光景を紹介する。おそらく休暇なのだろう。人民解放軍の若い3人の兵士が、館内で横に一列にすわり、脇目も振らず自分のスマートフォンを指ではじく姿、それが少なくとも1時間以上続いていた。若者はどこも同じだ。
 

2014年4月9日水曜日

梨の木山古墳と浅間山の風景

浅間を背景にした梨ノ木山古墳

 昨日、桜を見に車を走らせていたら、玉村町下茂木地内の梨の木山古墳でこのような景色に出会った。
 毎年の景色ではあるが、今年は特に背景の浅間山との調和が印象的だった。
 一日一日が過ぎて、また季節が移り変わり人も変わってゆく。
その中でタンタンとして生きてゆく。それが実は偉大なこと。

「散る桜 残る桜も散る桜」
今は静かな浅間山もいつかまた大爆発する日がくる。

 この風景は永遠のものではない。そして、この瞬間その中に悠久は宿っている。
「瞬悠」の深い意味はこの辺にある。そんなことを考えさせる写真だ。

2014年4月8日火曜日

亡き両親が一晩で2度夢に現れた不思議な話

藤岡神流公民館での水戸天狗党講演後の大塚先生(左から2人目)
2012年10月20日
今年も1番お気に入りの桜(東部スポーツ広場)

 6日は、故大塚政義先生の一周忌ということで下仁田町の清泉寺での供養に参加させて頂き、早くも亡くなって1年経ってしまったか、という感慨に耽った。
 ご家族はそれぞれ元気なので心配はないが、形見を整理しているうちに、武田信玄、清水次郎長に関し書き留めた長い文書が出てきた、と奥さんが話されていた。
その道に詳しい人がいれば、遺作として本にすることが出来るかもしれない。
 とにかく好奇心と調査能力、記憶力、行動力で、例えば、下仁田戦争の史実を天下に明らかにしたのだがら、ただの歴史家ではなかった。そして、それを支えた家族の存在の大きさも、このような法事に参加させて頂いて心底わかる。
 妙義町グリーンホテルで食事をしながらの話も故人の人となりを忍ぶ有意義な時間だった。
 中国にいる娘さんが今回は来れなかったのが残念だった。
というのは、私自身、中国へ今週、旅行に行くので、中国国内の様子を聞いておきたかった。まあ、又会えるでしょう。
 
 法事が終わってから、高崎映画祭の最終上映作品インド映画「きっと、うまくいく」を観る予定だったが、なぜか非常に疲れて、眠くなり、無理すれば会場に行けないことはなかったが、家に帰り仮眠した。
 少し寝て、夕食後9時過ぎには本格的に寝た。
朝までに3回ほど起きたが、その2回に、今は亡き両親が夢に現れた。
 1度目は、家の中に入り、妻の机に向かい何か書いている父親と離れてそれを見ている母親、父親の姿を寝ながら私は見ていたが、父親はやがて外へ出て行った。
妻を呼んでも、私の声が出ないらしく、全く反応はない。声を枯らして呼んでも反応はなくひとりもがいていた。
 2度目は、雨上がりの畑を30センチ程のふたりの人形らしきものが自宅の庭に向かって歩いてきた。透けて背景が見えている。自宅の庭に来たとき男が水たまりで足下が悪いせいか、ゆっくり転びそうになり、女はそのまま前に進んで歩いた。
私が手を差し伸べると男も手を差し出し、ゆっくり立ち上がった。顔は元気な時の父親で、握った手の感触があることを夢のなかでも不思議に思った。視線も合ったような気がする。
今度も妻を呼んだ、2度目か3度目で聞こえたらしく、2階から顔を出したそこへ前を歩いていた母親が帰ってきて「お便所に行けば」と一言、ふたりは離れて行った。ふたりが歩く方向には昔使っていた外便所がある。
母は父に向かって言ったのだと思う。しかし、トイレに行きたいのは私も同じでいつも起き際に夢を見る。
 親の夢を見ることはあるが、ふたりそろって一晩に二度というのは初めてのこと。ハテ、と考えてしまう。
 ここで、精神分析すれば、私の精神的混乱がそこにはあるのだと思う。
 高崎映画祭で観た映画だけでもその内容はスゴすぎる。
「旅芸人の記録」(3時間52分)、「アレクサンダー大王」(3時間28分)、「霧の中の風景」(2時間5分)、「狩人」(2時間52分)、
これらの監督テオ・アンゲロプロスの映画はどれも極めて政治的で、戦争、革命、内乱と死地をさまようものばかり。その中での男女の愛憎まで描く。
 それを居眠りもせず見れば、それでもストーリーは把握しきれず、かえって混乱する。
 アメリカ映画「天国の門」(3時間36分)は移民襲撃の話、移民国家アメリカで最初の移民が権力を持ってのさばり、後続の移民を排除しようとした時代を描いたものでこの戦闘シーンがスゴイのなんの。
 その上、「太陽に灼かれて」(2時間16分)、「戦果のナージャ」(2時間30分)、「遙かなる勝利へ」(2時間30分)のロシアの戦争映画3本立てを観りゃ頭もおかしくもなる。
 ロシア革命とスターリン主義反革命による粛正、秘密警察の暗躍、忠誠と裏切り、処刑と名誉回復、果てしなく続く戦争の惨禍を見続ければ、それらの映画がよく出来ているだけに精神的にストレスがたまり混乱しない方がおかしい。
 
 インド映画「きっと、うまくいく」を観て中和した方がよかったかもしれないがもう遅い。
 国境、国籍は軽々越えるつもりだが、この世とあの世の自由往来はまだチト早い。そして南京大虐殺記念館訪問ともなれば、
「落ち着けよ」、と両親が言いに来たのかもしれない。
 釈迦の誕生日の8日、桜の花とビールをもって久しぶりにお墓に行くよ。
 
 
 
 
 

2014年4月5日土曜日

10000歩の散歩新コースが出来そうだ。

9月開通予定の利根川新橋
伊勢崎側から見た東部スポーツ公園の桜
五料橋から八斗島方面を撮る
東京電波の大ソーラーパネル
桜満開の箱石貫前神社

 玉村町下之宮から伊勢崎市に向けた橋もほとんど完成し、9月の開通へ向け最終工事が順調に進んでいるようだ。
 この橋が完成すれが、私の住む箱石から伊勢崎市までが本当に近くなる。5分か10分で行けるだろう。
 そうすれば散歩コースも増えることになる。五料橋を渡り伊勢崎市側から玉村新橋を渡り帰るコースで、約10000歩といったところか。新しい風景に会えるという意味でも楽しみだ。
 いよいよ、映画祭も明日までとなった。
民話の楽しさ、深みを描いた「うたうひと」は記録映画としても貴重だ。昔話の好きな殿様の話もよかった。
「天国の門」は噂通りの映画で、大迫力があった。移民を排撃しようとして反撃される訳だが、そもそもアメリカ自体が移民国家だろうに。人は忘れるんだよねえ。自分に不利なことは。
ロシア映画「太陽に灼かれて」・・・スターリンによる粛正劇のひとつだが何も知らない娘の可愛いこと可愛いこと。子どもを泣かせちゃいけないよ。
 これから「遙かなる勝利へ」そして明日はインド映画「きっとうまくいく」・・・シネマテークたかさきで観たが、とにかくなんでもありの楽しい夢ある映画だ。こんな人生をみんなが送れたら最高だとは思うけど・・。
 「漂泊」の時間帯は大塚政義さんの1周忌法要のため、映画は観られない。


 
 
 

2014年4月3日木曜日

還暦同窓会、自由奔放企画は大陸

中山陵、どこかのブログから転載

還暦同窓会海外編は大陸に決定


 人生の一区切りがついた現在、元気なうちに海外へ、というわけで、ではどこに、となった。半島か大陸、ハワイ島もいいなど、意見が割れたが、それは歴史ある中国大陸がいい、まして政府間で対立しているから、なおさらいい、と主張したのは石川。
 かくしてこの4月、大陸に跳ぶ。
「自由奔放企画」の個人旅行だから、オプションで動く。
上海から南京に入り中山陵や南京大虐殺記念館にも勿論行く。
歴史に学ぶことの意味を今、もう一度、捉えなおしたい。
 日本の26倍の国土を持つ中国のスケールの大きさはあきれるほど。
 比べて、たった7平方メートルほどの絶海の孤島・東鳥島が波に洗われないようコンクリートで周囲を固め、領海保全をする日本のなんと涙ぐましいこと、そこの桟橋建設工事(国策工事)で大きな事故が起きた。悲惨としか言いようがない。
「それは岩だよ」と中国や韓国からは言われている。
両国のトップがヨーロッパでお互いを批判し合うという場面は、本当は見たくないこと、最初の原因は極右・安倍政権の過去の歴史を正しくとらえない姿勢、過去の戦争犯罪を居直る姿勢にあることは明らかだ。
 隣国との友好親善が図れれば、集団的自衛権などという議論も必要ないはず、誤ったメンツを通すため、両国人民が苦労する。
 右翼勢力は、勢いよく戦争を仕掛け、最後は手におえなくなり逃げ回る、満州事変だってそうだろう。全く無責任なのだ。

  国家の制約の中で人間同士敵味方の関係になってしまうことはどうしても避けなければならない。そのことが歴史の深い教訓のはずだ。
  中国で毛さん、周さん、そして習さんに会ってくるよ。
前事不忘、後事之師(前の経験を忘れず後の教訓とする)